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10/08/01
「私の人生」
(上旬)私はあの戦争に負けたとは思っていない
私は17歳のとき、親に反発して家を飛び出し、中国で貿易会社に勤めました。
軍に入ったのは20歳のときです。
九州の久留米予備士官学校を経て、陸軍中野学校に行きました。
そして昭和19年、東京が毎日爆撃にさらされるなど、非常にせっぱ詰まった戰況下で、私はフィリピンに派遣されました。
そこで私が受けた命令というのが、マニラのすぐ目の前にあるルバング島に行き、敵に占領された後もその島を離れず生き続け、日本軍の活動を敵に見せ続けろというものでした。
当時、ボロボロだった海軍に比べ、中国に展開していた80万人の陸軍はまだ無傷でした。
もし、日本本土が敵の上陸を許し、占領されたとしても、その戦力でもって、日本の国外でゲリラ戦を展開し、アメリカの国民世論が厭戦に傾くまで泥沼の戦争を続ければ、最終的に条件付きの講和を引き出せるという戦略です。
そこで、重要拠点になるマニラのアメリカ軍をルバング島から牽制するために私が派遣されたということです。
その効果が現れるのは日本に上陸され、持久戦に持ち込んだ時ですから、3年も5年も時間がかかります。
したがって、あくまでも生き続けることが重要な任務だった訳です。
ルバング島に渡ったのは、12月31日でした。
2月初めにマニラが占領され、次いで2月15日、私のいた島にアメリカ軍が上陸してきました。
私の所属していた部隊は純粋な戦闘部隊ではなく、装備も貧弱でした。
正面からでは太刀打ちできず、山にこもって戦い続けました。
そうして昭和20年8月15日を迎えたんです。
普通ならば、停戦命令とか武装解除の指令があるんですが、ルバング島は戦略的な重要性から、アメリカ軍は日本軍に任せなかったそうなんです。
それで、私たちの所に届いたのは、アメリカ軍が作った間違いだらけのビラでした。
私たちは、最初捕虜獲得のための偽の文書だとして相手にしなかったんですが、次第に投降者が相次ぐようになり、最終的には私を含めて4人だけになりました。
そこから、私のルバング島の30年が始まった訳です。
そして30年を経て、ようやく私のもとに任務解除・帰国命令が届き、それを受けて私は出頭しました。
そのとき、フィリピン政府からは
「小野田は捕虜扱いしてはならない」
という命令が出されており、マニラで大統領に謁見したときには
「軍人の模範だ」
と賞賛され、その間の全てを許すと言われました。
本来は戦犯として扱われてもおかしくない身でしたが、そういうのがあって、私は最後まで捕虜にもならず、自分の軍刀や銃などを全部持って、胸を張って日本に帰国しました。
だから私自身はあの戦争に負けたとは思っていません。
でも、それは戦争を放棄した日本にとっては問題だったようで、帰国したとたんに政府とケンカしてしまいました。
あちらの言い分では
「勝手なことをしてくれた。
救出・捜索にたくさん金がかかったんだから、有り難く思え」
ということらしいです。
でも、もし初めてから命令を出していてくれれば、私自身は戦犯として銃殺刑になったとしても、部下たちは死なずにすんだんです。
私の言い分はこうですから、話がかみ合う訳もありませんでした。
世間でも、一方では褒められ、もう一方では軍国主義の亡霊だと非難されるなど、いろいろ言われました。
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