
■■ 念仏と信心 ■■
1/2ページ
信心と念仏の関係
「真実の信心は、必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」
ここでは、真実の信心をいただいた者が、念仏とどういう関係を持つかという問題に絞って考えてみたいと思います。これは真宗の教学にとって、昔から非常に大きな問題になっているところです。なぜなら念仏と信心が、どう関係し合うかということは、親鸞聖人(以下、宗祖)の教義の根本問題だからです。ところが、宗祖の思想を学んでいく上で、この点が最もわかりにくい点でもあるのです。そこで「歎異抄」に重ねて、しばらくこの点を掘り下げていくことにします。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」
「歎異抄」の第一条冒頭の文ですが、ここには「ただ信心を要とす」という言葉が出てきます。この表現からもわかりますように、ここでは信心が非常に重要視されています。「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」ですから、この念仏の行者は、いまだ念仏は口から出ていません。信じて、念仏を称えようと思う、その時にはもうすでに摂取不捨の利益にあずかっているのです。
ですから、この場合は、ただ信心のみが要とされているのです。つまり、この中では念仏は求められていないのです。ところがこれに対して、同じ「歎異抄」の第二条には
「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」
という言葉が出てきます。今度は「ただ念仏して」ということで、信心という言葉は出てきません。ここに往因に関して、「ただ信心」と「ただ念仏」という、二種の「ただ」という言葉が出てきます。ところでこの「ただ」とい言葉ですが、「これのみ」という意味で、そこに他のものを加えることを嫌う言葉です。そのもののみ、ただ一つということです。したがって、ただ信心という時には、信心だけであって、その他は除外されます。同じく、ただ念仏という場合には、念仏だけであって、その他は除外されます。宗祖の思想で着目すべきは、往生するための要因として、衆生に「ただ信心と念仏」を必要とするとは言われていないことです。ただ一心に信じ念仏してとも、ただ一心に念仏し信を得よともいわれません。宗祖の著述を繙いてみますと、「ただ」という言葉が付される場合は、「ただ信心と念仏」が必要だという表現はみられません。
一方ではただ信心と述べられ、他方ではただ念仏と説いておられます。そうしますと、もしどちらか一つを取ると、もう一方はいらないということになってしまいます。ところが宗祖の思想においては、この信心と念仏が離れては浄土の教えはあり得ないとされます。往生のためには、ただ信心が必要、あるいはただ念仏が必要といわれながら、しかもこの両者が同一の場で同時に成り立っていなければならないという訳です。ただ信心と、ただ念仏。これは一体何を意味しているのでしょうか。また果たしてそのようなことが矛盾しないで成り立つのでしょうか。これは非常に難しい問題であるといわざるを得ません。
さて「教行信証」「信巻」の字訓釈に
「涅槃の真因はただ信心を以てす」
という言葉があります。涅槃に至る真実の因は、ただ信心のみだということです。それ故、この真理は動かし得ません。そのような意味からすると、浄土真宗の教えは信心が中心になってきます。先に見ました「歎異抄」の第一条の言葉とも合致しています。しかし、そうするとここで私たちにとって「念仏とは一体何か」ということになります。もし涅槃の真因を信心だと定めますと、それは一方では涅槃の真因は念仏ではないというのと同じことになります。そこで、「涅槃の真因は信心である。その信心は如来さまから頂いたのだから、その有り難さを喜んで、ご恩報謝の気持ちで、有り難い有り難いと称えることが念仏の意味だと」解釈するのです。
これが普通一般にいわれている「信心が正因であって、念仏が報恩である」という意味です。本願を信じ、有り難いという気持ちになれば、自ずと念仏は出てくるというです。如来さまから名号を頂くのですから、それが口から念仏として出るのは当然だと見て「信心を得て報恩の念仏を称えよ」というのが、今日の真宗の念仏の解釈になっているように思われます。
しかしながら、このような捉え方をしてしまいますと、二つの大きな問題が生じます。一つは「信巻」の
「真実の信心は、必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」
という言葉の解釈が成り立たないということです。「真実の信心は、必ず名号を具す」という文には、信じたならば必ず名号が出てくるとは表現されていないからです。この「真実信心は、必ず名号を具す」は、信じた者の心にはすでに名号が具されているという意味です。もちろん信じれば必ず名号は出るのですが、この文意は名号が信じた者の心に具せられているということを述べています。「真実の信心は必ず名号を具す」のですから、もう具しているのです。
けれども「名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり」ですから、名号には必ずしも願力の信心は具せられていないと解釈しなければなりません。そうしますと、信心が正因で、獲信すれば必ず報恩の念仏が出るという教えと、この文の構造は異なっているということになります。少なくともここでは、信心が往生の真因であり、念仏は報恩の行だとは説かれてはいません。
いま一つは、有り難いという心の問題です。私たちは本来的にこの娑婆国土にしがみついているのですから、本当の意味で浄土に生まれることを喜ぶ心などありません。そのような私たちの心が「歎異抄」の第九条に端的に説かれています。念仏を称えても少しも喜びは湧いてこないし、浄土に生まれたいという心も少しもおこらないのです。実際問題として、ここに信心を得て喜んでいる人がいたとします。この人がもし、宝くじで一億円を当てたとすると、それこそ飛び上がって喜ぶのではなかろうと思われます。
[1] 一覧へ戻る
[0] トップページへ