
■■ 真宗の救い ■■
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無条件の救い
浄土真宗の救いは「無条件の救い」であるといわれます。『阿弥陀如来は無限に迷っている私を無条件で救う』これが親鸞聖人(以下、宗祖)が明らかにされた教えの中心です。
けれども、この無条件ということが、私たちにはなかなか理解できないのです。真宗で「無条件の救い」というようなことを言うと「それならなぜ念仏するのか」とか「なぜ教えを聞く必要があるのか」「なぜ行や信について細やかなことを言うのか」と尋ねられることがよくあります。そういうことをするのであれば、やはり無条件の救いとは違うのではないか、という批判が寄せられるのです。
けれどもこのような質問は、実は質問そのものが根本的に誤っているとのだといえます。言い換えると、救いとはどういうことなのかよくわかっていないといわざるを得ません。本来「救い」とは、簡単にいうと自分が悪い状態にあると自覚している人が良い状態になることを求めることです。そのような意味で、このような質問をする人は、まだ救いが必要でないような良い状態にあると思っている人だといえます。そこで無条件の救いについてあれこれ議論する余裕がある訳です。しかし、これが普通一般の私たちの立場かもしれません。
人生が良好であるときは、多くの人は自分には救いなど必要ない、宗教は困ったり年老いた時にかかわるものだと考えているようです。そこで人生の危機や最悪の事態に遭遇すると、まるで別人のように神仏に救いを求めて右往左往してしまうことになるのです。事業に失敗する、不治の病にかかる、交通事故で最愛の人を亡くす、など悲惨な状況に陥ると、宗教など必要ないと言っていた人が、それまで軽視していた迷信に陥ってしまうことさえあります。
無条件の救いとは、人が最悪の状況におかれたとき、はじめて意味を持ち、光を放つのです。ところで、その人生の最悪の事態とは、先に述べたような事柄だけをいうのではありません。むしろ何ごともない平穏な私たちの人生そのものが、実は最悪の状態にあるといわなくてはならないのです。周知の通り私たちは必ず老い、病いにかかり、最後には死を迎えます。
まさに人生とは、すべての幸福が破れて最後に死があるという、みじめな最悪の状況のなかを生きていくものなのです。お釈迦さまはそういう人生の相を、まだ若いうちに見極められて、その苦を超える道を求められたのですが、残念ながら私たちはそのように真実を見通す眼を持ってはいませんので、悲しい人生の実相には気づき得ないのです。そうしてただその日を安閑と暮らし、ある日突然、死を迎えることによって慌てるのです。
ですから、先に挙げた人生上の危機とはそういう安閑とした生活をしてきた私たちが、人生の真相にめざめる一つの契機となるものです。しかし、それはあくまでも人生上の起伏というようなもので、そういう出来事があろうとなかろうと、私たちは等しく最悪の状態におかれていることに変わりはありません。
では「無条件の救い」とはどのようなことなのでしょうか。これは二つの観点から考えればよくわかります。一つは「救う側」からの見方です。ここでは大悲の無限性が明らかになれば良いのです。たとえば「摂取」という言葉があります。宗祖はこの「摂」という字に「逃ぐるものをおわえとる」という読み方を記しておられます。これは、真実に背を向けて生きている人間に対して、如来は常に先回りをして真実の道から逃げようとしている人間をつかまえる、それが「摂」という字に示された如来の大悲だといわれます。まさしくここに「無条件の救い」の一つの本質が見られると思います。
「無条件の救い」のいま一つの観点は、「救われる側」からの問題です。ここで最も重要なことは、救われる者はその大悲にはからいをもつなということです。如来が大悲をもって救おうとされるときに、救われる側が救って欲しいとその救いを掴みにいくと、その如来の大悲性は消えてしまうのです。ですから、救われる者は大悲に対してはからいを持ってはならないのです。「はからい」というのは、言葉をかえれば自力の執心です。そういうものを救われる側がもっていると、如来の大悲に真の意味でふれることができないのです。
救う者は無条件で救う。救われる者はこの救いに対して、なんのはからいももってはいけない。こう言われますと、面白いことに私たちは今度はこのはからいをもたないことが、救いの条件であるかのように思ってしまいます。それ故ここでもう一度無条件ということを問題にしたいと思います。私たちの迷いの姿は「行に迷い信に惑っ」て臨終の一念まで「心昏く識り寡く、悪重く障り多きもの」です。言うなれば、どこまでも自力の執心を持ち、はからい続けている者なのです。
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