
■■ 正信偈意訳 ■■
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寿命が無量であり、光明が無限である阿弥陀仏に、私は帰命したてまつります。
阿弥陀仏が未だ法蔵菩薩の因位であられた時、世自在王仏のみもとにましまされ、一切の諸仏の浄土の因と、その国土の人・天の善悪のすべてをみそなわし、一切の諸仏の願に超える、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発されました。五劫のあいだこの願について思惟し、ついに完全なものに摂受したのです。
この願の根本は、仏の功徳の一切をその名号「南無阿弥陀仏」に成就して十方の世界に響流せしめ、一切の衆生を救うことにあるのですが、願を建立した後、さらにこの点を偈でもって必ずや名号を十方に響流せしめ、一切衆生に聞かしめんと重ねて誓われたのです。
本願を成就された後、あまねく十。方の世界に無量・無辺・無碍・無対・光炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無称・超日月の十二の光明を放って、そのすみずみまで照らしたもうたのです。この故に生きとし生けるもので、この光明を蒙らないものはありません。
まさに本願の名号のはたらきは、一切衆生の往生を正しく定める正定の業です。至心信楽の願に誓われている信楽を、衆生涅槃の真因とします。往生し等覚となって、大涅槃を証することができるのは、必至滅度の願が成就されているからです。
如来がこの世にお生まれになる理由はただ一つ、阿弥陀仏の本願の教えを説かんがためなのです。世が乱れ悪事が満ち満ちている時代の人々よ、だからこそ如来の説かれる、南無阿弥陀仏の如実の法を信ずべきなのです。
もし衆生があって、如来の言葉を信じ、念仏を喜ぶ一念喜愛の心を発すれば、その瞬間、煩悩を断ずることなく涅槃が得られます。凡夫も聖人も逆謗さえも、ただ弥陀の本願海に斉しく迴入すれば、すべての水が海に入りて一味となるがごとく、仏果に至りうるのです。
獲信の念仏者には、摂取の心光が常に照護したもうています。この者の心は、すでによく無明の闇が破せられているのです。だが悲しいことに、そうであるにもかかわらず貪愛瞋憎の雲霧が、常にこの真実信心の天に、覆いかぶさっています。ただしこの者の心は、たとえば日光が雲霧に覆われることはあっても、雲霧の下は明らかであって闇がないのに似ています。
信を獲て弥陀の法が明らかになり、念仏を敬い大いに慶ぶ人は、そのとき即時に迷いの世界である五悪趣を横ざまに超えて断ち截るのです。
一切善悪の凡夫人よ、阿弥陀仏の弘誓の本願を聞信すれば世尊はその人をして広大勝解の者とほめられこの人を分陀利華と名づけられます。
阿弥陀仏の本願念仏の教えは私たち邪見で驕慢な悪衆生には、信楽を受持することはまことにもって困難なことであり、その難しさは難の中の難でありこの難に過ぎるものはないのです。
そこで印度や西天の論家、中国や日本の高僧たちが次々と世にあらわれて、釈尊が説かれた出世本懐の教えのその正意を顕して、阿弥陀仏の本願弘誓の教法がそれぞれの時代・社会の人々に応じることを明らかにされたのです。
(以上、依経段)
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